今年も、この日がやってきた。
【10.19】。1988年10月19日。その日、僕は川崎球場にいた。
8月には首位独走の西武から8ゲームも離されていた近鉄が、怒濤の快進撃で首位に立ってしまったのは10月5日のこと。
が、西武との直接対決に連敗し、わずか一夜にして首位陥落。
「嘘だろ、優勝!? あー、やっぱりダメなのか。でも、ひょっとして…」。
当時の川崎球場は、ロッテの本拠地。グラウンドコンディションも悪く、とにかく雨天中止の多い球場だった。そのため、シーズン大詰めになっての近鉄の日程は、「ロッテ、ロッテ、ロッテ、ロッテ…」。藤井寺、西宮、大阪球場での試合を挟みながら、移動日なしでの対ロッテ戦(川崎)が7試合も残っていたのだ。10月19日の最終戦まで、15日間で17試合。この異常な日程が、それこそ異常なまでの期待と熱さを膨らませたのかもしれない。
こうして僕は、その7試合全てを見るために、川崎球場へと通い続けることになった。
怒濤の快進撃を続け、奇跡の逆転優勝に向けて突っ走る猛牛軍団。でも、あの日、10月19日の前日までは、誰もが半信半疑だったようにも思う。川崎球場はいつものようにガラガラで、3塁側内野スタンドに入り、好き勝手なポジションに陣取って観戦できたもの。内野指定の大半はシーズン席だけれど、当時のロッテ戦@川崎球場の、それも3塁側シーズンチケットなんて紙屑も同然。正規シーズンチケットの観客なんて皆無なのだから、指定席の座席番号なんて誰も気にしていなかった。
ところが、あの日だけは違った。
ダブルヘッダー第1試合の開始前、おそらく40分ぐらい前だったろうか、球場に到着して驚いたのなんの。人、人、人…。チケット売り場に行ってみると、内・外野席は完売との表示まで。。。嘘でしょ!? 当時の川崎球場が満員になるなんて、シーズンを通してあり得なかったことなので。外野席など、内野スタンドから観客を「1人、2人…」と数えられるのが当たり前の光景だったもの。
とにかく、わずかに残っていたネット裏・特別指定席をゲットし、スタンドへ。これまた人で埋まっている周囲に驚愕しながら、エリア区分けの金網を乗り越え、いつもの3塁側内野指定席へ。バイトな係員が向こうにいたようだけれど、何も言われない。彼らにしても、見たこともないような観客の多さにパニックだったのか。いちばん高額なネット裏席を購入しておいて、わざわざ安い内野席へと移動する輩を注意するほどヒマじゃなかったのでしょう。
いつものシーズン席エリアにやってくると、そこには、連日の川崎通いで顔なじみになった面々が。お互いに名前も知らず、話したこともない一人客ばかり。きっと皆、周囲には理解されないレアな近鉄ファンとして寂しい日々を送っていたのだろうなぁ。自分もね。
「あ、あの人、また来てるよ」
誰しもがそんな表情で、妙な連帯感まで生まれていた。
第1試合終了時、誰からともなく抱き合って喜び、誰もが半泣き状態だったあの場を、僕は忘れない。
彼らは今、何をしているのだろう。近鉄のその後を、どう見つめたのだろう。
そんな興奮も冷めやらぬ、第1試合の終了後。
どこからともなく回ってきた新聞の号外のおかげで、球場内はさらなる異様な雰囲気に包まれることとなる。
「阪急、オリックスに身売り」
え。嘘でしょ。
阪急が危ないことは認識していたけれど、なんで、よりによって、パ・リーグの盛り上がりが最高潮に達したこの日に発表するんだ。
号外を回し読みする皆の表情が、一様に曇って見える。
そうか、みんなパ・リーグが好きなんだな。阪急は永遠のライバルだと思っていたものな。
オリックスって何だよ、最低だな。
今になって思えば、近鉄とオリックスとの因縁もまた、この日に始まっていたのかもしれない。
そして、第2試合が終わった。
うら寂しい暗闇をとぼとぼと、川崎駅へと歩く道程の長かったこと。
当時の僕は中目黒に住んでいたので、南武線と東横線を乗り継いで帰路についた。
近鉄のヘルメットをかぶり、応援団お手製の巨大メガホン(←応援団の遠征資金カンパに、熱心なファンが買ってあげていたもの)を肩にかけたまま放心状態になっている姿は、他の乗客からどのように見えたのだろう。よく無事に帰り着けたものだ。
テレ朝が『ニュースステーション』枠で試合を中継していたことは、翌日になって知った。中継に世の中が湧き、「10.19」が伝説と化したことなど、その夜の僕は知る由もなかった。。。
あの日あのとき、川崎球場で体感した一球一打にまつわる感動は、いつまでも忘れない。
自分があの場にいられた喜びと絶望感を、近鉄ファンとして永遠に、心に刻んでおこう。
そんな10.19に、パ・リーグCS最終戦が行われるとは。しかも、ロッテ戦。
時は流れるものですね。
南海とロッテが日本シリーズ進出を賭けて最終決戦? そう考えると、なんかすごいな。。
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